-------------------------------------------------------------------------
月の呪文(ムウ)
“月がきれいですね”というのは日本では巷で有名な愛の言葉ではあるだけれど、ここ聖域では勿論そんな意味を知る人はいない。
星矢は絶望的、魔鈴や沙織が知っているかもしれない、その程度。
「今夜は月がきれいですね、ムウ様」
だから、彼女はここぞとばかりに想い人へそう呼びかける。
伝えたいと思う傍ら、伝わらないから臆面なく言える。ずるくて曖昧で、同時に恋情に溢れた言葉を彼女は彼に向かって何度唱えただろう。
「ねえ気付いていますか?」
いつもならばそうですね、と答えて月を見上げるはずのムウは、けれど今夜は隣に並んだ女を見つめて逸らさない。
「あなたがその言葉を紡ぐとき、どれだけ艶めいた声をしているか」
いい加減、察してしまうほど甘やかで、だというのにその言葉の本当の意味を知ることができず、確証を得られないのはひどくもどかしいのだと彼はふて腐れる。
「だからどうか、わたしの知る言葉で、あなたの口から教えてほしい。その言葉があなたの中でどんな特別な意味を持っているかを」
熱を灯した翡翠の瞳が迫るので、彼女は頬を赤く染めながら心中で死んでもいいわと呟いた。
(終)
-------------------------------------------------------------------------
餅か薬、あるいは(童虎、シオン)
書庫番娘がその辺で摘んできたススキと、童虎が持ってきた手作り月餅(もちろん春麗特製だ)、そしてシオン秘蔵の酒が揃えば、明るい月の下、愉快な月見の始まりだ。
先に手酌で呑もうとする二人に小娘が酌をさせろとしつこくせがむので、まあ良いかと彼女に酒瓶を渡す。
外見一八歳、中身は二百歳を越えた爺でも(むしろ爺だからこそ)、若い娘の酌は嬉しいのであった。
そんなことはいざ知らず、娘は出された小さな杯に慣れぬ手つきで酒を注ぐ。なんだか初々しい仕草が妙に可愛く見えて、普段は厳しい教皇猊下も今日はついつい口が軽くなる。
「下手くそ」
からかい交じりの柔らかな声音に、少し悔しそうに彼女はべ、と舌を出す。
「はじめてですもん。大目に見てくださいな」
「ほう、我らが初めて、か」
意味ありげにシオンが呟けば、童虎もまたにやりと笑って酒を煽った。なにが面白いのかわからずに首を傾げているのは小娘ばかり。
さて酌ばかりさせては可哀相だと、今度は彼女の手にも猪口を持たせて童虎手ずから注いでやる。「なんか三々九度っぽいですねえ」と照れ臭そうに言い、今度はシオンと童虎が首を傾げる番だった。
それはなんだ、と聞いても彼女は秘密です、と瞳に悪戯めいた色を滲ませて口元に人差し指を寄せた。――おや、先刻あんなに子供っぽいと思ったのに今は一丁前に女の顔をする。
瞠目した男たちが言葉を呑んだその一瞬、穏やかなしじまを秋の夜風が吹き抜けススキの穂を揺らし、彼女が月を指さして笑った。
「今日は兎が近くまで降りてきているみたいですね」
「おお、今夜も薬を作っておるのかのう」
「いやいやお餅ついてるんですよ」
「どっちでも良いわ」
「じゃあシオン様は何に見えますか?」
「わたしか? そうだな――」
(終)