オリュンポス山に勝るとも劣らぬピレネーの高地では豪雪も雪崩も当たり前だった。しかしどんな悪天候であれ聖闘士の修行を休む口実にはならない。
いつも死と隣り合わせの世界だったように思う。
だから、自分は雪を見て浮かれるお前の気持ちがわからないのだと、雪に浮かれる書庫番の女に、シュラが淡々と語る。
居合わせた氷河は、先輩ともいうべき黄金聖闘士の言葉を静かに噛みしめ、心中で同意した。
幼い頃から明日の命もわからない。辛くて、苦しい日々。希望というものがあるのならば、それはきっと今日を生き伸び「聖闘士になる」という執念にも似た願いだけが寄る辺だった気がする。
「ほんとうに、それだけ?」
窓の外を飽きることなく見続けていた彼女が、ふいに振り向いた。
シュラと氷河を順に見つめた瞳は穏やかで澄んでいて、同時になにか深い感情を宿しているように見えたが、それがなんであるのか氷河は捉えかねた。
「雪とは本当に、あなたを害し、行く手を阻むだけのものでしたか?」
叱るでもなく、揶揄するでもない。
透明な声音が尋ねる。
「それを美しいと思う日は、その雪に助けられた時は、本当に一度もなかった?」
思い出して、と言われた気がした。氷河はそれで目を閉じる。
澄んだ声が氷河の記憶を手繰り寄せるのを手助けするように、いつかの日々が思い出された。
吹雪が止んだ翌朝の、雪原をきらめかせる太陽の光。
その真っ白で誰も踏んでいない白い世界に、最初の一歩の足跡を付ける時の胸の高鳴り。
窓ガラスを彩った窓霜の幾何学模様。そういえば、普通なら大怪我では済まなかったところを、雪溜まりに落ちたおかげで大事に至らなかったこともあった。もっとも、その雪だまりから抜け出すのに大変な思いもしたけれど。
「――鍛錬の後、よく雪の下を流れる小川を探した」
水の方が温度が高いから、触れると少し温かかくて飲むと澄んでうまいのだ、と。
ぎこちなくシュラが紡いだ記憶に、彼女は顔を綻ばせた。
「聞かせてください、良かったことも悪かったことも」
もちろん、氷河くんも。
ずるずると手を引かれて暖炉の前に座らされるとき、氷河とシュラは互いに視線を交わして薄く笑いあった。
さあどちらから、どんな話から始めようか。
ペチカの炎は赤く揺らめく。
<終>